SSブログ

「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第五章 煉獄篇」感想・・・のようなもの その8 [アニメーション]


※ネタバレ全開です! 未見の方はご注意ください。


▼第18話「ヤマト絶体絶命・悪魔の選択再び」(後編)


■ “都市帝国” 出現

まず画面に映るのは、ヤマトがガス帯内部で発見した天体。
しかし・・・カメラが引いていくと・・・なんと!
同じような天体が3つ・・・さらにその外側には・・・

あの超巨大戦艦の艦首みたいなものを天頂部分に載っけて・・・

ガス帯内に遊弋する艦隊群も無傷で・・・
(推定1000万隻?)

彗星内部にあったのは・・・巨大な建造物。
木星の大きさにも匹敵しようという蜘蛛の足のような構造体。

旧作の都市帝国とはかなり様相が異なって・・・
むしろ暗黒星団帝国のデザリアムのほうがイメージ的には近いか・・・

BGMもまた、彗星帝国が正体を現したときの・・・

そこに君臨するズォーダー大帝。「踏み潰せ!」

土星を素通りして進撃を開始する都市帝国。

 まあ、ガス惑星ではあるものの、
 あんなものが近傍を通り過ぎれば無事では済むまいなあ。


初見の時は驚くだけだったが、全体直径が木星に匹敵するならば
天頂部の “超巨大戦艦の艦首” 部分だけで地球くらいの大きさがあって
あの10個並んだヘッドライトみたいなもの(笑)だって
1個で月くらいの直径がありそうだ。

 あと、これは何回か見直した後に思ったんだが
 あの蜘蛛の足みたいな部分(惑星を抱え込んでるところ)が
 変形合体して、全体として “超巨大戦艦” になったりして・・・
 なぁんてことを考えてしまったよ。

 もしそんなことになったら、全長が木星サイズなんていう
 とんでもないシロモノになるんだが・・・

 でもまあ、こと「2202」でのガトランに関しては
 何が起こってもおかしくない感じもあるから・・・


■地球艦隊第二次攻撃

「全艦、波動砲へのエネルギー充填!」

都市帝国の両極付近には謎のフィールドが形成されつつある模様。

「波動砲、てーっ!」

しかし・・・都市帝国は無傷。謎フィールドにはじかれたのか。
波動砲は全く通用しないようで、このあたりもデザリアムと同様か。

都市帝国側も、いつまでも地球艦隊のいいようにされているわけもなく
ガス帯が復活、ついでに超重力も復活したようで
地球艦隊がどんどん吸い込まれていく・・・

「反転、全艦離脱!」

そこへ必殺の破滅ミサイルの雨あられ。
アンドロメダも被弾、波動砲口を大破、超重力に引き寄せられていく。


■アポロノーム爆沈

「エンジン、出力低下」「アポロノーム、接触!」
「なに!」

スクリーンにはアポロノームの艦長が。

「山南指令、行ってください! アポロノームはもう持ちません」
「安田艦長・・・」
「残りの出力で、アンドロメダを押し出します・・・
 山南、お前は最善を尽くした」
「安田・・・」
「幸運を祈る」

敬礼をする安田。爆沈するアポロノーム。
感動的なシーンのはずなんだが、とってつけた感は否めないなぁ。

会戦前に、1シーン、せめて1カットでもいいので
山南と安田の旧交を描くシーンがあれば
もっと盛り上がったんじゃないかと思うが、もったいない・・・
いや、これもきっと尺の問題なんでしょうが・・・

 とは言っても、安田役にささきいさおさんを投入するのであれば
 ここは多少は無理してでも、
 安田の出番を増やすべきだったのじゃないかな・・・とは思ったよ。

アンドロメダは残存艦とともに辛うじて戦場を脱出。
そしてズォーダーの哄笑が宇宙に木霊する・・・


■ヤマト

戦いの一部始終を見ていた第一艦橋クルー。

「何だよ、あれ・・・」「あれが、ガトランティスの」
「あんなのと、どうやって・・・」

しかし土方は動ぜず、トランジット波動砲に賭ける。

「人と人、宇宙の間に働く “縁” の力が
 彗星帝国を倒すとテレサは言った。
 信じよう。
 我々は “縁” あって同じフネに乗り、決戦を目前にしている。
 その “縁” を力に変えるのは、一人一人の意思のはずだ」

このときの雪の作画は結城さんですかね


■大統領の演説

土星沖会戦の敗北に動揺する一般市民を鼓舞するためか。

「我々地球人類は侵略に膝を折るつもりはない。
 3年前にも滅びの縁から這い上がってきた我々だ。」

演説をバックにヤマトが土星空域にワープアウト。

「地球人類は決して屈しない。団結して最後まで戦う」

ヤマトを見つめるズォーダー。口元には余裕の笑みが。

「自由と平和を守るために。子供たちの未来のために」

普通なら、いよいよヤマトvs都市帝国の決戦だ!ってなるはずだが・・・


■独房

「死に向かう子供を救えるのは親の愛だけ。そうでしょ・・・?
 それはかけがえのない愛。身勝手な・・・愛」

今までにも出てきた、赤ん坊を抱くサーベラーのイメージ。
透子自身も、赤子をなでるような手つきを示し・・・
彼女、というかサーベラーの “記憶” の中には
”子供を失う” ようなことがあったのだろうか?

「すべてを破壊する・・・愛」

ここでズォーダーの目のアップ。
彼自身が “すべての破壊” を目論んでるから・・・?

キーマンが透子の異常に気づく。

「おまえ! 何をした!」


■加藤

手にしたコントローラー。

「翼・・・」

真琴との日々が脳裏をよぎる

「翼が生まれて、あたし、なんでこの世に生まれてきたのか
 分かった気がする。」
「この世界は本当に辛いことばっかり」
「でも、この子は生まれてきてくれた。
 きっと、どうでもいいんだよね理由なんて」

画面はトランジット波動砲発射態勢に入るヤマト。
いつもよりも砲口部の発光が激しい。

「だって嬉しいんだもん。サブちゃんに逢ってこの子に逢えて」
「嬉しいってことに理由はいらないんだから」

涙を流す加藤。

「ごめんな、父ちゃん、地獄に行くわ」

コントローラーを操作、同時に波動砲口の光が消え・・・

「何だ?」
「機関長、推力が」

超重力に引き寄せられていくヤマト。

「波動エンジン沈黙!」
「まさか・・・反波動格子の暴走?」

「彗星帝国の重力エリアに突入します!」

太田の叫び声で第五章終了。


■身勝手な・・・愛

加藤の行動は賛否両論あるだろう。
旧作からの加藤を知る人ほど、拒否反応は強いかも知れない。

私も初見の時は「えぇー」って思ったクチだが
見返すうちにこれはこれで意味はあるのだろうとも思うようになった。

「2202」の副題は「愛の戦士たち」。

 旧作「さらば」でこの言葉がどうだったかを語り出すと
 長くなりそうなので横に置いといて(笑)

少なくとも「2202」制作陣はこの副題を
お題目やキャッチコピーに終わらせずに、
作品のメインテーマとして捉え、真っ正面に向き合ってると思う。
キャラクターたちの行動を規定するものが ”愛” だからだ。

第9話で古代に課された “悪魔の選択”。
このときの「愛」は《男女の愛》。
ヤマトという作品に於いて、これを体現するのは
古代と雪なのは論を待たないだろう。

そして、もう一つの「愛」がある。
それが今回の《親子の愛》。
制作陣は、これを体現させるものとして
加藤三郎・真琴夫婦とその子・翼を登場させた。

徹底的に愛を否定するガトランティス(ズォーダー)が、
テレサに選ばれたフネであるヤマトのクルーに対して
《男女の愛》について “悪魔の選択” を仕掛けてきたのならば、
《親子の愛》についてもまた、仕掛けてくるのは
ある意味当然のことなのかも知れない。

 そのズォーダーとサーベラーの間にも《愛》はありそうだ。
 それが《男女の愛》なのか《親子の愛》なのかは未だ不明だが。
 両方なのかも知れないし、どちらでもないのかも知れないけれど。


■正解のない問題

古代の時もそうだったが、
ガトランティスから提示された選択肢に正解は存在しない。

どちらを選んでも死者が出ることは避けられなかった古代。

加藤もまた、どちらを選んでも翼の死は免れない。
遊星爆弾症候群で死ぬか
ガトランティスによる知的生命抹殺行為で死ぬか。

だから「加藤は選ぶべきではなかった」って、
言うのは簡単だが、いざ幼子の命を前にしたとき、
そう簡単に割り切れるものなのだろうか。

愛するものの死を前にして、冷静に考えられるものなのだろうか?

大げさに言えば、これは作品を観ている人の
死生観にも繋がるもののような気もしている。


■個人的な話

ヤマトとは離れるが、ちょっと個人的な話を書く。

私の義父(かみさんの父親)は12年ほど前に亡くなった。

突然の心臓発作で倒れ、植物状態となった。
当然ながらかみさんも義姉も義母も、一日でも長い生存を願った。
いずれ死は免れないとしても、たとえ一日でも長く生き続けてほしい。
可能性は限りなくゼロに近くても、
亡くなるまでの1ヶ月半の間、みな最後まで回復を信じていた。
それは家族の自然な感情だろう。

そして、義母も6年ほど前に逝ってしまった。
突然の病に襲われ、坂道を転がるように容態が悪化して
発病からわずか三週間という急死だった。
このときも、みるみるうちにやつれていく義母を見ながらも
“命の火が消える” ということが信じられなかった。

二人とも倒れるまでは絵に描いたような健康体で、
平均寿命までまだまだ余裕のある年齢だった。
だからなおさら、
「もっと生きていてほしい、いや生きられるはずだ」
という想いが家族にはあった。


■「人の親になる」ということ

ましてや、年端もいかない子供の場合は、
親は一日でも長い生存を願うのは当然のことだろう。

今日の死を明日に延ばせる方策があれば、
たとえ一日限りの延命だって
親はためらうことなく、それに縋ってしまうのではないか。

子供の死を前にすれば理屈は吹っ飛んでしまい、感情が前面に出てくる。
「人の親になる」ということは、
そういう生き方を選ぶということでもあるのではないか。


■人の親となった加藤

加藤の行動は、煎じ詰めれば
人類の生存を危うくする選択だったのかも知れない。

初見の時は大いに驚いたし、
批判され、糾弾されてしかるべき行動なのは間違いないが
子を持つ親としては、理解できなくはない行動だとも思う。


 まあ単純に「加藤にあんなことをさせてほしくなかった」
 と思う人が多いのも分かるが、
 旧作においては航空隊のリーダーとしてしか描かれなかった加藤が
 「2199」そして「2202」では私生活まで踏み込んで描写された。
 そして第五章に至ってはストーリーの根幹に関わる存在にまで。
 ここまでの扱いは破格と言ってもいい。

 「そんな扱いはいらない。旧作のままの加藤がいい」
 って思う人もいるだろうなとは思うが、
 キャラの役回りを旧作のままに押し止めてしまうのは
 リメイクの自由度を狭めてしまうとも思う。


■たかがフィクション?

”死生観” なんて大仰な言葉を振り回してしまったが
「たかがフィクションにそこまで考える必要はなかろう?」
って意見の人もいるだろう。

だが感じ方は人それぞれ。
ましてや、モノは「ヤマト」である。

「さらば」から数えても40年。
第1作から数えれば45年になろうかという長いつき合いだ。

凡百の作品とは違う。”別格” の作品なんだ。
振り返ってみれば、”ヤマトと共に生きてきた” のだから。

旧作からのファンには私と同世代の人も多いだろうし、
大切な人との永遠の別れを経験した人も少なくなかろう。
作品を観て、自分の人生と重ねて考えてしまう人だっているだろう。

それに、これもたびたび書いてるが
100人のヤマトファンがいれば、「理想のヤマト」も100通り。
こういうヤマトがあってもいいんじゃないか?


■「2202」への “期待値”

このブログのあちこちでも書いてるが、私は「さらば」否定派だ。
だから「2202」が始まる前、40年前に感じたあの ”違和感” を
否応なく再び思い出させられるんじゃないかと、不安が満ち満ちていた。

しかし、いざ始まってみると意外なほどすんなりと観ているようだ。
それどころか第五章までの展開については概ね楽しんでいる。

 ところどころ「おいおい」って突っ込みたいところや
 「あちゃー」って思うところもなくはないが・・・。

何でだろう・・・ってちょっと考えてみたんだが、
ひょっとすると “期待値” が違うのが原因なのかも知れない。

私は「2202」に対して
 “「さらば」の再現” なんてものは全く期待していない。
ましてや「あの感動をもう一度」なんて気はさらさらない。

 だってわたしは「さらば」で全く感動できなかった人間なんだから。

ゆえに、「さらば」から逸脱する要素は大歓迎なのだろう。

人造生命ガトランティスも、250万隻の大戦艦も、
《悪魔の選択》も、そして加藤の行動までをも含めて。

あの「さらば」を吹っ飛ばすような、
凡百の予想を越えた、しかも私が納得できる結末を観たい。
ただそれだけなのだ。(←けっこうハードル高いと思うが)

 “私が” ってところが重要ね(笑)。
 他の方がどう思うかは正直言ってどうでもいいのだ(おいおい)。


とは言っても、第六章から旧作回帰が始まって
原典通りの終わり方になる可能性もなくはない。

 もしそうなった場合は、
 思いっきりこの場で扱き下ろすか、
 あるいは、今後一切ヤマト関係の記事から足を洗うか、
 どちらかだろうなあ・・・

そうならないことを願いながら11月を待ちたいと思います。


■第五章ED主題歌「ようらんか」

最後の最後に、今回のED主題歌についてちょっと書いて終わらせよう。

タイトルの「ようらんか」ってどんな意味なんだろう
・・・って思ってたら、
「愛の宣伝会議」でちょっとそれに触れていましたね。
羽原監督がED主題歌は「子守歌で」ってオーダーを出したらしい。

おお、それでやっと “揺籃歌” って漢字が頭に浮かびましたよ。
なるほど、だからBD版のEDは翼くんメインだったんですね。

nice!(2)  コメント(10) 
共通テーマ:アニメ