十一人の賊軍 [映画]
本作の舞台となった新潟県新発田市を紹介した「しばた街めぐり」というサイトの中に、この映画の紹介が載っている。これがよくまとまっているので、そこから引用する。
* * * * * * * * * * ここから引用
新潟の新発田(しばた)藩家老・溝口内匠(みぞぐち・たくみ)は進退窮まっていた。
日本は二つに分裂し、戊辰戦争が勃発。「新しい時代を切り開く!」という強い使命感を掲げ進軍を続ける新政府派「官軍」によって、旧幕府軍は徐々に東国へと追い詰められていた。
密かに新政府軍への寝返りを画策する新発田藩の目の前には、遂に官軍の到着が迫っていた…そんな折に、旧幕府派の奥羽越列藩同盟軍が出兵を求め新発田城へ軍を率いて押しかける!
城から退かない同盟軍と迫りくる新政府軍が鉢合わせてしまっては、新発田は戦火を免れない!まさに絶体絶命!
一刻の猶予も無い溝口内匠は一計を案じ、官軍の進撃を食い止める起死回生の一手として【砦の護衛作戦】を命じる。
集められたのは、殺人、賭博、火附け、密航、姦通...などで収監された、死罪になるべき人道を外れた十一人の罪人たち。
圧倒的不利な命懸けの過酷ミッションとは、【新政府軍が砦へ侵攻するのを防ぐこと】ただそれだけ。
死を覚悟していた彼らに見えた、「生きる」という一筋の希望。勝てば “無罪放免” という契りを信じ、罪人たちは己のために突き進む。
果たして、彼らは未来を掴み取ることができるのか!?
新発田藩、同盟軍、新政府軍…三者の思惑が交錯するなか、それぞれの執念が轟く、十一人の壮絶な戦いがいま始まる!
* * * * * * * * * * 引用ここまで
ちょっと補足しておくと、【砦】とは官軍が新発田藩へ侵攻するルート上にある小さなものだ。
溝口内匠が考えた策は、その【砦】で官軍を足止めし、その間に奥羽越列藩同盟軍に新発田藩から出て行ってもらうこと。その後、官軍を迎え入れれば新政府へと無事に鞍替えすることができる。
しかし、【砦】に割ける兵員が足らず、罪人を使うことにしたわけだ。しかしそこには、もう一つの思惑もあったのだが・・・
主人公は罪人の一人、駕籠かきの政(まさ)[山田孝之]。妻を手込めにした侍をたたき殺したことで死罪となった。他の罪人には、
いかさま博徒の ”赤丹”(あかたん)[尾上右近]、
火付けをした女郎・なつ[鞘師里保]、
花火師の息子・ノロ[佐久本宝]、
檀家の娘を手込めにしたエロ坊主の ”引導”(いんどう)[千原せいじ]、
医師の倅でロシアへの密航を企てた ”おろしや” [岡山天音]、
一家心中の生き残りの ”三途”(さんず)[松浦祐也]、
侍の女房と恋仲になって姦通罪となった ”二枚目”[一ノ瀬颯]、
無差別殺害犯の ”辻斬”(つじぎり)[小柳亮太]、
外見はヨボヨボだが意外に凄腕の ”爺っつぁん”(じっつぁん)[本山力]。
以上、罪人は総勢十人。タイトルには「十一人」とあるのだけど、ここの意味は作中で明かされる。
彼らは「砦の死守に成功すれば無罪放免」という約束の下に、決死隊に加わる(加わらざるを得ない)ことになる。
この罪人たちを指揮する侍たちには
剣術道場の道場主で直心影流の使い手・鷲尾兵士郎(わしお・へいしろう)[仲野太賀]、彼は本作では政と並んでのダブル主役を務める。
そして家老・溝口内匠の腹心で、その娘・加奈の婚約者でもある入江数馬(いりえ・かずま)[野村周平]。
すべてを画策した溝口内匠を演じるのは阿部サダヲ。
罪人たちに対して非情ともいえる決断を下すのだが、すべては藩の安寧、民が戦渦に巻き込まれないことを最優先するが故のこと。
しかし、だからといって罪人たちへの ”裏切り” が許されるわけではない。
あっという間に落ちてしまうかと思われた【砦】だったが、意外と持ちこたえてみせる。鷲尾や ”辻斬” など、ある程度は剣を使える者がいたのもあるが、中でも ”爺っつぁん” の豪腕ぶりは特筆もの。彼の正体はラスト近くで明かされるのだが、その勇猛ぶりも納得の出自だ。
また、戦闘には不向きと思われた罪人たちの中にも意外な才能を発揮する者がいて、官軍を苦しめていく。
「無罪放免」を信じて戦いに身を投じる罪人たち、藩命に従って命をかける侍たち。彼らの壮絶な戦いが延々と描かれていく。
しかし所詮は多勢に無勢、じりじりと情勢は悪化し、櫛の歯が欠けるように彼らの命は散っていく・・・
TVドラマから時代劇が消えて久しいが、映画ではここのところ、定期的に作品が作られるようになってきた。
だが本作で描かれるのは、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」みたいな ”きれいな” 時代劇ではない。切られれば血しぶきがほとばしり、腕がちぎれ首が飛ぶ。そんな、血なまぐさい殺陣が続く。
Wikipediaによると、本作は脚本家・笠原和夫が1964年に執筆した「十一人の賊軍」のプロットが原案。彼の脚本は賊軍が最後に全員死んでしまう結末で、当時の東映上層部の意にそぐわずに却下され、企画は打ち切りになったという。
本作では、監督の白石は笠原の原案のラストを改変しており、生存者がいる。まあ当時とは価値観も異なり、観客の求めるものも変わってきているのでこれは妥当だろう。
おおむね映画のストーリーに沿っているが、ラストがやや異なる。
生存者の人数は変わらないが、そのメンバーが異なるのだ。
映画のラストとノベライズのラスト、好みは分かれるとも思うが、私はノベライズ版の方が映画版よりは ”救い” がちょっぴり多く感じられるので、こちらの方が好きだ。
ボルテスV レガシー [映画]
1977~78年にかけて放映されたTVアニメ『超電磁マシーン ボルテスV』。
それまでのロボットアニメ(に限らずTVアニメ全般)は一話完結が主流だったのに対し、ストーリーの連続性を高め、全40話という尺を使って ”大河ドラマ” 的な物語を描くという野心作だった。
そしてTVアニメ放映から45年を経た2023年、フィリピンのクリエイターたちの手によってCGを駆使した実写作品として甦った。しかも全90話というボリュームで。
今回日本で公開された映画版は、その序盤の部分を編集したものだ。
まずは公式サイトの ”STORY” から
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ある日地球は突然攻撃を受けた。
宇宙のはるか彼方からプリンス・ザルドス率いる “ボアザン帝国” の軍が攻めてきたのだ。
これまでに見たこともない兵器の数々に、地球側の反撃は全く歯が立たない。
その圧倒的な戦況にありながら、プリンス・ザルドスは勝利を確実なものとするため、強力で巨大な戦力である獣型ロボット “ビースト・ファイター” を繰り出した。
その頃、地球の前線基地・ビッグファルコンには、スティーヴ、ビッグ・バート、リトル・ジョンのアームストロング3兄弟とマーク・ゴードン、ジェイミー・ロビンソンの5人が集められていた。
目的を告げられずに訓練に参加させられていた5人は、その時に初めてこれまでの訓練がボアザン星人と戦うためのものだったことを知る。スティーヴたち5人は、3兄弟の母でもあるマリアンヌ博士らの指示のもと、密かに製造されていた5機のマシンに乗り込み出撃した。
クロウ・ブーメランやボンバー・ミサイルといったマシンの武器は、ボアザン星人の兵器を打ち破ることに成功する。
しかし、屈強なビースト・ファイターには歯が立たない。その時にビッグファルコンの司令官・スミス博士から合体するよう指令が下る。
「レッツ・ボルトイン!」のかけ声で合体した5機のマシンは、巨大な人型ロボット “ボルテスV” となった。
ボルテスVが持つ特殊な超電磁テクノロジーを活かした様々な武器、そして天空剣を握り、スティーヴたちは果敢にビースト・ファイターに挑んでいく。
果たしてボルテス・チームの5人は、地球を守ることができるのか――
* * * * * * * * * *
本作の上映時間は97分ほど。決して長い尺ではない。見に行く前に危惧したのは、総集編的に駆け足で詰め込みな映画になっていないか、ということだった。ところが蓋を開けてみるとそれは全くの杞憂だった。
97分の尺で描かれるのは、原作アニメでいうと第1話と第2話。一話30分のTVアニメでは、実質的な尺は22分ほど。つまりこの映画は、44分のアニメを97分かけて実写で描くという、実に贅沢な尺の使い方をした映画だったのだ。
でもまあ、そもそも40話のストーリーを90話かけて描いてるのだから、おそらく全編にわたってこのようなつくりになっているのだろう。
以下、原作アニメを含めて本作について思ったことを書いていく。
■原作アニメのストーリーの革新性
昭和の時代、宇宙からの侵略者に対して地球のロボットが立ち向かう、というアニメは数多かった。だけど、他の星系からやってきた(当然、恒星間航行を可能とする技術を持っている)ということは、地球とは格段に科学技術格差があるということだ。
そんな、下手をすれば何世紀も進んだ科学力を持つ敵を相手に地球製のロボットが互角以上に戦える。考えてみればこれはおかしなことだ。たいていは天才的な科学者が登場して「こんなこともあろうかと開発していた」で済ませて(済まされて)しまっていたのだが・・・
原作アニメを初見したとき、私が驚きかつ感心したのは、本作ではその矛盾をきれいに説明して、ボルテスVが建造されるに至るまでの設定がしっかり用意されていたことだ。
しかもそれは初めから明かされているわけではなく、ストーリーの進行につれて伏線がまかれていき、そして「第28話」に至ってその全貌が明らかになるという流れになる。
なんとこの回には、戦闘シーンが全くない。つまり物語の根源に関わる ”過去の歴史” の開示、それのみに特化した内容になっている。
戦闘シーンがないということはボルテスVの活躍するシーンもないわけで、主役ロボットのおもちゃを売っているメーカーがロボットアニメのスポンサーになっていた当時では、およそあり得ない展開なのだが、スタッフはそれを押し切ったのだろう。
そしてこの設定は過去だけにとどまらない。現在進行中のストーリーにも関わってくる。
この手のヒーロー番組では後半になると敵がパワーアップしてくる。それによってピンチになったヒーロー側のロボットも、改造されたり新兵器が投入されたりするのだが、本作ではその ”ヒーロー側のパワーアップ” にもこの設定が活かされていて、実にドラマチックな逆転劇を見せてくれる。
さらに、この設定はロボットだけでなくキャラにも関わっていて(むしろ作品的にはこちらが主眼なのだろうが)、終盤のクライマックスを盛り上げる重要な ”要素” となっているのだが・・・もういい加減書いてきたので、これくらいにしておこう。
■心躍るビジュアル、合体シーンは感涙もの
映画の冒頭、ボルテスVの基地となるビッグファルコン、そして基地のある島(原作では「大鳥島」)の全景が映る。ビッグファルコンももちろんなのだが、島の全景も原作そのままの、鳥が羽を広げた形で再現されている。このあたり、終盤の展開を知っている人なら、高まる期待を抑えられないだろう。
そして何よりボルテスVの合体シーン。アニメ版のアングルを完璧に再現し、さらに桁違いに緻密化されたビジュアル。もうこれだけで胸が熱くなる。
YouTube にはアニメ版との比較動画が上がっているが、その完成度は感涙ものだ。
■キャラの再現度
アニメのキャラを実写に落とし込む場合、「イメージが違う」というのは国内海外を問わず起こる問題だろう。
本作の場合、キャラの再現にも並々ならぬものを感じる。主役であるスティーブを含むアームストロング三兄弟(原作では剛三兄弟)は体格まで原作にそろえてあり、ビッグファルコンの指揮を執るリチャード・スミス博士(原作では浜口博士)が髪型と髭まで再現してるあたり、ちょっと笑ってしまう(褒めてます)。
敵となるボアザン星の指揮官プリンス・ザルドス(原作ではプリンス・ハイネル)と彼に仕える三人の幹部に至っては、コスチュームといいメイクといい文句のつけようがなく、まさに完璧だ。
■問題点:”冗長” なのか ”見せ場” なのか
本作の評価で多いのが「冗長だ」という意見だろう。上にも書いたが44分の作品を97分で描いてるのだから、そう感じるのもある意味当然だろう。私もそう感じた一人だ。
アニメ版の第2話までの映画化と聞けば、原作を知る人ならクライマックスにはアームストロング三兄弟の母親マリアンヌ博士(原作では剛光代博士)のエピソードがくるのだろう、と予想がつくだろう(実際そのとおりなのだが)。
そして実際、伸びた尺のうち、かなりの部分が彼女のエピソードに費やされている。
実は本作には、随所に「ここ、ちょっと長いなぁ」と感じさせる部分はあるのだが、おそらくそれをいちばん強く感じさせるのがこの部分だろう。
私自身も「かなり冗長」だという意見には同意する。だけど、観終わって少し時間をおいて考えてみて、思ったことがある。
「あれは冗長なのではなく、観客への大サービスなのではないか?」と。
ここでいう観客とは日本人ではなく、フィリピンの観客だ。
国が違えば好みも価値観も異なる。ならば映画の ”語り口” も異なってくるのではないか。
「観客の見たいものを見せる」のがエンタメの基本であり目的ならば、おそらくフィリピンでは、”あのシーン” を ”あの情感描写” で、そして ”あの長さ” を以て ”じっくり” と描くことこそが、”フィリピンのボルテスVのファン” が求めているものなのかも知れない、と。
もちろん原作のアニメ版では、尺の都合で描けなかったところやもっと時間をかけて見せたかったところもあるだろう。だからリブート版の本作が長くなるのはある程度理解できるのだが、おそらく日本人が編集したら70分から75分くらいに収めたのではないかと思う。そこの差が日本とフィリピンの感性というか好みの差なのだろう。
ところで、いま Wikipedia をみて驚いたのだけど、原版(フィリピン公開版)はなんと107分もあるらしい。ということは、日本版は原版を10分削ったものということになる。
それでも「冗長」って言われてしまうのだから、原版はどうなってるのだろう。ちょっと観てみたい気もしてくる(笑)。
■声優陣について
ボルテスVが合体を終えると、主役のスティーブが
「ボォォーール テェース、ファァーーーイブ!!!」って叫ぶ。
スティーブを演じたのは小林千晃さん。原作アニメでは白石ゆきなが(現:白石幸長)さんが演じているんだけど、小林さんのこのシーンでの演技がとっても素晴らしい。小林さんがキャスティングされたのは、この ”叫びの再現度” が決め手だったのでないかと個人的に思っている。
新旧の合体シーンは両方とも YouTube に上がっているので見比べる(そして ”叫び” を聞き比べる)のも一興かと。
プリンス・ザルドスは諏訪部順一さん。こちらも人気声優。自分から「ボルテスV」に出たい!ってアピールしての出演とか。こちらもファンなのですね。
原作のプリンス・ハイネルは美形キャラとして当時の女性ファンがたくさんついたらしい。フィリピン版の俳優さんはちょっとイメージが異なるかな、とも思うが、こちらの方がフィリピンでは受けがいいのでしょう。
あとちょっと気になったのが、ボアザン星の皇帝ズ・ザンジボル(原作ではズ・ザンバジル)の声優も諏訪部さんが務めていること。二人は血縁ではあるが(原作では従兄弟同士)声まで同じというのはちょっと理解に苦しむ。フィリピン版では何か別の設定があるのかしら?
そして終盤でメインを張るマリアンヌ博士役は堀江美都子さん。
原作での剛光代博士は、三兄弟を厳しく鍛え上げるスパルタな女性だったが、フィリピン版では細やかな愛情を注ぐ優しい母親として描かれている。このあたりも ”お国柄” なのだろう。
堀江さんが歌った『ボルテスVの歌』(作曲は小林亜星!)はフィリピンでは国家並みによく知られ、歌われているらしい。合体シーンでもちゃんと原作通りに流れる(なんとフィリピンの女性歌手が日本語で歌っている)。
そんなに愛されている作品に声優として参加できて、彼女も幸せだろう。
■終わりに
こんなに長く書くつもりは全くなかったのだけど、書き出したら止まらなくなってしまった(笑)。
映画版で描かれたのは冒頭部だけなので、続きが観たいなぁ。YouTube では、中盤~終盤の映像も一部上がっているのだけど、そのあたりの再現度も半端ない。いやでも期待してしまう。
TOKYO MX で短縮版(30分×20話)が放送されるらしいんだけど、残念ながら我が家では観られないんだよねぇ・・・
でもそっちより、元々の90話版が観たいな。どこかで配信されないかしら。
スオミの話をしよう [映画]
ネットの評価を見ると、今ひとつな数字が挙がってて、中にはけっこう厳しいことを書いてる人もいる。
だけど、かみさんが三谷幸喜のファンで「観に行きたい」って言うので、不安はあったのだけど映画館に足を運んだ。
結論から言うと、「そんなにひどくはなかったよ」
双手を挙げての ”大傑作” だとは思わないけど、114分間それなりに楽しんだし、時間や金を無駄にしたとは感じなかったから。
期待値のハードルを上げすぎた状態で観に行くと、ちょっとアテが外れるかも知れないけど(笑)。
それではあらすじから。
TOHOシネマズのサイトにあった紹介文を、編集したものを掲げる。
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その日、刑事・草野[西島秀俊]が訪れたのは著名な詩人・寒川[板東彌十郎]の豪邸。≪スオミ≫[長澤まさみ]が昨日から行方不明だという。スオミとは寒川の妻で、そして草野の元妻。
草野は、すぐに正式な捜査を開始すべきだと主張するが、寒川は「大ごとにするな」と言って聞かない。やがて屋敷に続々と集まってくる、スオミの過去を知る男たち。
スオミの最初の夫で元教師の魚山(ととやま)[遠藤憲一]、二番目の夫で怪しげな YouTuber の十勝[松坂桃李]、三番目の夫で警察官の宇賀神[小林隆]。
ちなみに草野は四番目の夫、寒川は五番目にして現在の夫だ。
誰が一番スオミを愛していたのか。誰が一番スオミに愛されていたのか。
スオミの安否そっちのけで、男たちは熱く語り合う。だが不思議なことに、彼らの思い出の中のスオミは、見た目も、性格も、まるで別人・・・。
スオミはどこへ消えたのか。スオミとは一体、何者なのか。
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記事の冒頭にも書いたけど、三谷幸喜作品なので大爆笑できるだろうって期待しすぎると、ちょっと肩透かしを食うかも。
ストーリーのほとんどが寒川の屋敷の中で進行したり、開幕早々に広間のシーンでとてつもなく長回しのワンカットがあったりと、舞台劇ふうの画面作り。
このへんも好みが分かれるかな。好きな人にはたまらないかも知れないが、合わない人には退屈に思えるかも知れない。
物語の設定がちょっと複雑なので、それが頭に入るまでの序盤はちょっと笑う余裕がないだろう。でも芸達者な役者さんばかりなので、中盤以降の流れに乗れればけっこう楽しく観られる(と思う)。
スオミの失踪が誘拐であることが判明し、後半は三谷幸喜お得意のミステリー・タッチになるが、コメディである基本は揺るがない。
私が観た回では、爆笑とまではいかなかったけど、後半ではけっこうクスクス笑いが起こってたよ。
登場する役者さんについて個別に書いていたら大変なので、4人に絞る。
まず序盤では、板東彌十郎演じる詩人の設定が面白い。
詩人と言えば「赤貧洗うがごとし」というイメージがあるが、彼は著作がことごとくベストセラーになっているようで、豪邸に暮らし、金庫には億単位の現金が入っている。それでいて極めてケチな守銭奴で、他人に対する態度も傲岸不遜そのもの。そんなイヤな奴なのに、人の心を打つ詩を書く。
まあ、仕事上の能力と人間性に相関はないからなぁ・・・とか、昔の同僚や上司を思い出してしまったよ(笑)。
5人の夫の前で、それぞれキャラを切り替えてみせる長澤まさみの上手さには驚かされた。さながら多重人格みたい。それも、ワンカットの中で5つの人格をすべて演じ分けてみせる。ここまでできる女優さんは稀ではないかな。
教師役の遠藤と三者面談に臨むシーンでは、中学生のスオミとその母親役を(もちろん合成なのだが)同一画面の中で演じ分ける。ここまで来ると天晴れとしか言い様がない(流石に中学生役は無理があったかな。せめて高校生にしてあげて)。
そして、スオミとともに現れる謎の女・薊(あざみ)を演じる宮澤エマもスゴかった。彼女もまたスオミ同様、いくつもの人格を演じ分けてみせる。
映画の宣伝では長澤まさみの演技ばかり紹介されてるみたいだが、どっこい宮澤エマの演技はそれに勝るとも劣らない。もっと評価されていい女優さんだ。
そして草野の部下・小磯を演じたのは瀬戸康史。『鎌倉殿の13人』でも、愛嬌たっぷりのお惚けキャラを演じてたが、本作でのコミカルな演技には凄い進歩を感じた。彼を主役にした喜劇映画を観てみたくなったよ。
ラストはメインキャラたち総登場のダンスシーンになる。
「ここ、必要なのかな?」という思いも頭の中をよぎるが(おいおい)、みんな一所懸命に踊ってるので観てあげましょう(笑)。
とくにオジサンたちは、練習が大変だったと推察する。お疲れ様でした。
そしてここでは、長澤まさみの歌を聴くことができる。これがまた素晴らしく上手い。なんともたいした役者さんになりましたねぇ。
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『もしも徳川家康が総理大臣になったら』 [映画]
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時は2020年、コロナウィルスが猛威を振るい日常を奪われた日本。
国内どころか世界中が大混乱に陥る中、首相官邸でクラスターが発生、あろうことか総理大臣が急死。そこで政府が実行した最終手段、それは「AI・ホログラムにより歴史上の偉人たちを復活させ、最強内閣をつくる」という前代未聞の計画だった。
総理大臣を託されたのは “江戸幕府を作り上げた伝説の男” 徳川家康(野村萬斎)。そして、日本史に燦然と輝く大スターたちが議員バッジをつけて入閣。
官房長官を “幕末の風雲児” 坂本龍馬(赤楚衛二)、経済産業大臣を “最強にして最恐の革命家” 織田信長(GACKT)、財務大臣を “空前の成り上がり者” 豊臣秀吉(竹中直人)、ほかにも紫式部(観月ありさ)、聖徳太子(長井短)、北条政子(江口のりこ)、徳川吉宗(髙嶋政宏)、徳川綱吉(池田鉄洋)、足利義満(小手伸也)など、通称 ≪偉人ジャーズ≫ によるドリームチーム内閣が誕生する。
圧倒的なカリスマに加え、政策を推し進める “えげつない” 実行力に人々は驚愕し、日本中が熱狂していく。
そんな中、テレビ局の新人記者・西村理沙(浜辺美波)はスクープを取ろうと政府のスポークスマンである坂本龍馬に近づくのだが、ひょんなことから偉人ジャーズの活躍の裏に渦巻く黒い思惑に気付いてしまう――
果たして、陰謀の正体とは?
そして、日本史に新たに刻まれる “事件” の真相とは?!
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正直、いわゆるゲテモノ映画だと思ってました(失礼!)。
実際、映画の冒頭からしばらくの間は、あまりの発想の突飛さに「楽しむ」より「戸惑う」感覚の方が大きかったように思います。
基本はコメディ映画(のはず)なので、笑うべきところ(笑わせようとしているところ)が随所にあったけど、いまひとつノリ切れなかったのは、そのせいでしょう。
秀吉が「心配ご無用!」とか「どうする、家康!」とか叫ぶなど、過去のドラマや映画などから持ってきた(と思われる)小ネタもあちこちに散りばめてあるんだけど、そのへんも不発気味。
「これ、一生懸命に考えたんだろうなぁ」と思うと、ちょっと残念な気もしたりして(笑)。
それでも、なんとか観続けられたのは、俳優陣の魅力に負うところが大きいと感じました。中でも三英傑を演じた野村萬斎、GACKT、竹中直人の三人は図抜けていたと思います。
終盤になると「家康 vs 秀吉」という、”内紛” に焦点が移っていくのですが、長年にわたって秀吉を演じ続け、すっかり役柄を自分のものにした竹中直人に対し、野村萬斎も流石の貫禄で一歩も引かずに渡り合う。このあたりは見応えがあったと云えるでしょう。
二人の対決によって、観客はいろんなことを考えさせられることになります。
政治とは、経済とは、選挙とは、民主制とは、ポピュリズムとは・・・
竹中直人演じる秀吉の身振り手振りが、だんだんドナルド・トランプみたいに見えてくるのは、わかってやってる(演出してる)んでしょう。
このあたりは「まさかこうなるとは」と思わせる、意外にシリアスな展開で、序盤からは想像もつかないでしょう。
私はけっこう楽しんだのですが、「映画館に来てまで、そんな説教を聞きたくないよ」って感じる人も少なからずいるでしょう。このへんは評価の分かれるところかと。
TV局の記者役の浜辺美波さんは、たぶん一般人(+観客)の代表としての視点人物として設定されたのでしょうが、如何せん ”偉人ジャーズ” のキャラが強烈すぎて、いささか霞んでしまったように思います。
「浜辺美波さんを観るために映画館に来た」人にとっては、ちょっとアテが外れたかも知れません。
あと、作中のBGMで『大江戸捜査網』のテーマが使われたんだけど、これがドンピシャリにハマってて、これは素晴らしかった。
家に帰ってから YouTube で探して、フルコーラスで聴いてしまったよ(おいおい)。
映画『朽ちないサクラ』 [映画]
三連休の中日(7/14)、諸般の事情でポカっと時間が空いてしまいました。
家でぼーっとしているのも芸がなかろう、というわけで映画を観ようと出かけました。
この映画、もともと観る予定に入っていなかったのですが、他に候補に挙がった映画は、上映時間が合わなかったり、上映館が遠かったり。
だからこの作品は消去法で選びました(失礼!)。まあサスペンス・ミステリーと銘打ってあるのでよかろう、と。
柚木裕子さんの原作小説の映画化なのですが、当然ながら未読の状態で臨みました。
ではまず、あらすじから。公式サイトの「STORY」をベースに、若干編集してあります。
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「疑いは絶対に晴らすから」
そう言って立ち去った親友は一週間後に変死体で発見された
愛知県平井市在住の女子大生が、度重なるストーカー被害の末に、神社の長男に殺害された。のちに、平井中央署生活安全課が女子大生からの被害届の受理を先延ばしにし、その間に慰安旅行に行っていたことが地元の米崎新聞に独占スクープされる。
県警広報広聴課の森口泉(杉咲花)は、親友の新聞記者・津村千佳(森田憩)が約束を破って記事にしたのではないかと疑い、千佳は身の潔白を証明するために調査を開始し、1週間後に変死体で発兄される。
自分が疑ったから、千佳は何者かに殺されたに違いない一一。
自責と後悔の念に突き動かされた泉は、親友の弔い合戦に身を投じる。そして彼女は、ストーカー殺人と警察の不祥事に、かつて大事件を起こしたカルト宗教団体が絡んでいることを知り・・・
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以下は感想。
ネタバレに類する内容もあるので、未見の方はご注意を。
まず第一印象は「地味な映画だなぁ」ということ。主役の泉がいろんな登場人物と対峙し、会話していくのが延々と綴られていく、という印象です。
親友を疑い、その親友が殺害された後は自責の念に苛まれ、自ら真相究明に動き出す。行政職員の泉には捜査権がない。協力するのは警察学校の同期だった生活安全課の磯川(萩原利久)のみ。
しかし彼女のひたむきさは、直属の上司である広報広聴課課長・富樫(安田顕)と捜査一課係長・梶山(豊原功補)を動かし、事件の核心へと迫っていく。
終盤のカーチェイスを除き、全編ほぼ会話のシーンが続きます。TVの二時間ドラマだってもう少し派手なシーンがあるんじゃないかなぁとも思いました。
ただ、そのぶん丁寧に作ってあるとも云えます。観客を飽きさせないため、短時間にイベントをたくさん詰め込んで密度を上げる映画も多い中、本作は真逆とも云える演出で、かえって印象的に見えるかも知れません。
また、その会話劇を支える俳優さんたちがみな達者で、会話シーンだけで充分に尺が持ってしまうのもスゴい。
本作の上映時間は119分。サクサク語ることに徹すれば90~100分くらいに充分収まるようにも思えますが、製作陣はあえてこの長さにしたのでしょう。
ただ、ストーリー的にはどうか。
公安とカルト宗教が出てきた時点で、ある程度ミステリを読み慣れた人にはオチが見えてしまうように思います。
公安警察は上(国家)を向き、刑事警察は下(市民)に視線を向けています。目的が異なる以上、目指す正義も異なります。どちらかが間違っているということはなく、どちらも正しいとは思います。
ただ、公安警察の捜査が一般人の価値基準からかなり離れているのは事実でしょう。そのへんを差し引いても、本作での公安の、”いかにもな黒幕” 的な描かれ方にはちょっと違和感を感じました。あれではカルト教団以上の暗殺組織じゃないですか。
まあフィクションですから、悪役を設定しなければいけません。現代日本では公安は悪役にしやすい組織ではあるでしょう。
ヒロイン・森口泉は事件を通じて「警察とは何か」「正義とは何か」を考え始め、本作のラストでは自分なりの答えを求めて警察官への転身を決意します。
本作は泉の成長の物語としてはとてもよくできていて、杉咲花さんはそれにぴったりだったと思います。
原作小説では既に続編『月下のサクラ』が刊行されていて、刑事となって機動分析係へと配属されたた泉の物語が描かれているようです。
うーん、読もうかなぁ・・・どうしようかなぁ・・・
祝! 『ゴジラ -1.0』アカデミー賞視覚効果賞受賞!! [映画]
ちょっと時機を逸しましたが、『ゴジラ -1.0』制作陣の皆様、受賞おめでとうございます。
ノミネートされただけでもスゴいと思ってましたが受賞までしてしまうとは、もうビックリでした。『ゴジラ』シリーズを観続けてきて良かったと思えた日でした。
ただ、その報道の仕方にはちょっと不満も。みな「CGの出来がスゴい」とか「ハリウッド映画と比べて1/10の予算」とか、VFX関係の話ばかり。
まあ「視覚効果賞」だから、そのへんがメインになるのは仕方がないのでしょうが、そもそもの話、映画としての出来が良くなければ、いくらCGがスゴくたって候補にも挙げてもらえないわけで、ぜひそこのところを伝えてほしかったんだけどね。
受賞のニュースを伝えてるアナウンサーとかキャスターとかの中には、「こいつ絶対、映画本編を観てないだろ・・・」って思う人もいた。
映画としての出来にまで言及していたのは私の知る限り、某ワイドショーのコメンテーターの一人が奥さんと一緒に観に行った話をしていて、本人はもちろん奥さんも「素晴らしい映画だった」って絶賛していた、というのが唯一かな。
おっと閑話休題。
この映画、11/3の公開後、11~12月の間に4回くらい見に行きましたかねぇ。
Dolby Cinema が2回、IMAX が2回だったかな。料金はかかるけど、この映画はそれだけの出費に見合う作品だと思います。綺麗な映像と素晴らしい音響で観る『ゴジラ -1.0』は最高でした。
「5/1に Blu-ray が発売予定」ってアナウンスされ、さっそく予約したんですけど、今回の受賞を知って嬉しくなり、またまた映画館に観に行ってしまいました。一昨日(3/13)のことです。
平日の昼間なのに、席は7割方埋まってましたかね。通常では考えられないことです。みんな受賞のニュースを聞いて観に来たのでしょう。
およそふた月ぶりの『ゴジラ -1.0』でした。流石に一日一回上映で、通常の音響のハコでしたけど、よかったです。ストーリーも分かりきってるんだけど、やっぱり涙が出てしまいました。
願わくば、今回の受賞をきっかけに「ゴジラだから・・・」とか「怪獣映画だから・・・」とかの理由で敬遠していた人にも、ぜひ劇場に足を運んでもらいたいものです。
観客動員も盛り返してきたようだし、上映館や上映回数も増えたらいいな。ちょっと前に、国内興行収入が60億に達したというニュースがあったけど、少しでもそれに上積みされるといいな。『シン・ゴジラ』の82億は超えられないかもしれないけど、少しでもそれに近づくようになってほしいものです。
山崎貴監督は「ゴジラをもう一本撮りたい」って言ってましたけど、可能性は高まりましたね。
『-1.0』の続編になるのか、別の新しいゴジラになるのかは分かりませんが、どっちにしろかなりハードルが上がってしまったので、次の映画はそう簡単には作れないでしょうねぇ。
まあ、私の生きているうちにお願いします(おいおい)。
あともうちょっと書かせてもらうなら、この映画は全世界で160億くらい稼いでいるらしいので、儲けの一部は制作陣にも還元してあげてほしいなあ。結果を出したらきちんと報酬を与えるのは当然のこと。そこを怠ると、そのうちCGスタッフたちは外国(アメリカや中国)に引き抜かれてしまうぞ。
タグ:SF
『ゴジラ ー1.0』 ネタバレあり感想 後編 [映画]
表記にあるとおり、『ゴジラ ー1.0』のネタバレあり感想・後編を始めます。
未見の方はぜひ劇場でご鑑賞の上で再度お越し下さい。
映像・音響共に、まさに映画館の優れた設備で ”体験” するための作品で、一見に値する映画だと思います。
「ネタバレなし感想」は11/12にアップしております。
■海神作戦開始
いよいよ「海神作戦」が開始される。参加艦艇は、駆逐艦「雪風」「響」「夕風」「欅」のわずか4隻。しかも武装解除のため砲塔は撤去されていて、丸腰の状態だ。
敷島の駆る「震電」によって相模湾へと誘導されたゴジラに向かって、まず「夕風」「欅」が突進する。ゴジラはこの2艦を熱戦で一掃するが、実は両艦とも無人。これは銀座での熱戦発射後のゴジラの ”損傷” 具合から、短時間内での連射はできないと踏んだ野田の計画だった。
まずゴジラに一発撃たせてしまうための囮。実際の間隔を計測したわけではないから、これもけっこう危ない橋を渡ってるよねぇ。でも「穴だらけの作戦」なのは、みな百も承知の戦いだ。
残る「雪風」と「響」による、ゴジラにガスのボンベを装着させる作戦が始まる。途中、二艦がギリギリの距離ですれ違うという決死の操艦を見せる。
なんでギリギリになったかはノベライズ版で解説されてる。「雪風」の艦尾に装備されたクレーンが吊っているワイヤーと、海面との間のわずかな隙間を「響」が通り抜けるためだ。
2艦とも海中にワイヤーを曳航したまま交差すると、ワイヤーが艦体に接触して損傷したり、スクリューに絡んでしまうリスクがあるからだろう。
ノベライズを読んでからもう一度映画館に行ったら、このシーンはちゃんと画面に映ってる。細かいところまで考えて作ってるんだなぁと思った。
堀田艦長の「全艦、衝撃に備えよぉぉ!」の命令が緊迫感満点でシビれる。
■ゴジラ、深海へ
ゴジラへのボンベ装着に成功、開放されたガスの発泡に包まれ、浮力を失ったゴジラは1500mの深海へ一気に沈降していく。
『ゴジラ-1.0』は、さまざまな形態で上映されてるけど、IMAXで観ると音響に圧倒される。ここでのゴジラ周囲の爆発音、続いて深海へ引き込まれていく海水の音は、全身に響いてくる。まさに ”轟音” だ。
ゴジラって、普段はどうやって浮いてるんだろう?って疑問を頭の隅に残しつつも(笑)、目はスクリーンへ釘付けだ。
流石のゴジラも、熱線の放射態勢へ入っていた背びれの輝きが消えたので、それなりの効果はあった模様。
しかし未だ動きは止められないようで、野田は ”予備作戦” への移行を進言、バルーン展開によるゴジラ引き上げへと進んでいく。
ところがゴジラはバルーンを食い破り、引き上げ途中で停止してしまう。堀田は駆逐艦2艦による引き上げを始めるが、絶対的な推力が足りない。
■”援軍” 登場
そこに、水島率いる船団がやってくる。負傷によって作戦から外された彼は、近隣の小型船舶をかき集めて作戦海域へ急行してきたのだ。
ちりも積もれば山となるではないが、小さい船でも数が揃えば大きな力になるってわけで、首尾良くゴジラ引き上げに成功。
あんなにたくさんのロープで引っ張られて駆逐艦の艦体は大丈夫なのかとか、ワイヤーは(海水の浮力はあるにしろ)ゴジラの体重に堪えられるのかとか、頭の隅っこに浮かんだけど、そこはツッコんではいけないところ(笑)。
浮上してきたゴジラは体のあちこちがなんだか爛れたみたいになっていて、かなりのダメージを喰らっているように見える。しかしそれでもなお、熱線放射シークエンスに入ってしまう。このままでは海神艦隊(+水島船団)の消滅は必至だ。
■敷島の決断
万事休すと思われたそのとき、敷島の「震電」がゴジラに向かって突っ込んでいく。750kgもの爆弾を抱えていたのも、ゴジラと差し違えて倒すため。
「震電」はまっすぐにゴジラの口へと突入、次の瞬間大爆発が起こってゴジラの頭部が吹っ飛ぶ! そして本体もまた、光を放ちながら崩壊を始め、破片となりながら海中へ没していく・・・
敷島は・・・一同が呆然とする中、野田が上空のパラシュートを発見する。彼は直前で脱出していたのだ・・・
橘は、爆弾と同時に脱出装置も装着していたのだった。彼もまた敷島に「生きろ!」と告げていた・・・
■脱出装置
2回めの鑑賞のとき、「震電」を整備している橘のシーンでコクピットが映ったのだけど、座席の背面に横文字が書いてあったことに気づいた(ドイツ語っぽいと思ったけど、ノベライズ版ではやっぱり「ドイツ製」と明記されてた)。
ネットで調べたら、圧縮空気を利用した座席の射出装置は、第二次大戦中に既にドイツとイギリスで完成していたらしい。前線の戦闘機に搭載されるまでには至らなかったが。
この「震電」の射出装置は、橘が進駐軍から手に入れて ”後付け” で装備したものだと思ってたんだが、Yahoo!ニュースの記事で、(映画内の設定として)機体にもともと付いていたのではないか、っていう考察があった。
日本は大戦中にドイツから潜水艦を使って様々な軍事情報を得ていた。ジェット戦闘機Me262やロケット戦闘機Me163の情報まで手に入れていた。日本がそれを元に「橘花」と「秋水」を建造したのは有名な話だ。
ならば、ドイツが開発した射出装置もまた潜水艦を使って日本に持ち込まれ、「震電」の試作機に装備されていたのではないか、というもの。
「震電」は後方にプロペラがある関係で、パイロットが脱出する時にプロペラに接触して負傷する可能性がある。そのため、元々の設計ではプロペラシャフトに爆薬を仕込み、パイロットが機を捨てる際にはそれを使ってプロペラを爆散させる仕組みを取り入れる予定だったという。
ドイツから射出装置が手に入ったのなら、それを使う方が確実なのは間違いないので、この考察には「なるほど」って思った。
いくら橘が整備士として有能でも、短時間で射出座席を機体に組み込むのは、流石に無理があるよねぇ。
■生きる
経緯はともかく、敷島は自ら「生きる」ことを選択した。
典子の喪失を乗り越え、彼の心を ”生” へと向けさせたのは、明子の存在もあっただろう。「海神作戦」に参加した人々の、諦めずに運命に抗う姿勢もあっただろう。
でも、いちばん大きかったのは、突入直前に「生き残ったものは、きちんと生きていくべきです」という彼女の言葉を思い出したから、そして何より、いま生きているのは、銀座で彼女が自らの身を挺して守ってくれたから、ではないだろうか。いわば、彼女から ”譲られた” 命なのだから。
いずれにしろ、この映画のテーマである「生きて、抗え」を体現したシーンだろう。
生き残ったとしても、敷島を待っているのは典子のいない世界。それでも、生きていく。そういう覚悟をしたのだろう。
■再会
「海神作戦」を終え、帰港した「雪風」。しかし敷島に笑顔はない。そんなとき、出迎えの人々の中から明子を抱えた澄子が現れ、一枚の電報を渡す。
それをみた敷島は顔色を変え、明子を抱いて病院へ向かう。そしてそこの病室には・・・典子の姿が!
包帯姿も痛々しいが、生きていた典子の姿に号泣する敷島。そんな彼に、典子は優しく語りかける。
「浩さんの戦争は、終わりましたか・・・?」
思えばこの2時間の映画(作中時間では実に2年近い)の間、敷島は悩み、悔やみ、悲しみ、泣き、そして怒りと絶望に苛まれてきた。
だが、このラストシーンで流した涙は、いままでとは全く違う、温かい喜びに溢れたものだったはずだ。彼の戦争は、まさに今、終わったのだ・・・
典子は死んだままの方がよかったのではないか、という意見も散見する。まあ、そのほうがドラマとして綺麗に収まるのかもしれない。
でも、私は思う。2時間の上映時間のうち、1時間59分くらいはずっと悩み苦しんできた敷島に、最後の1分くらいご褒美をあげても罰は当たらないんじゃないか、って。
頑張った者が報われるとは限らないのは世の常。だからこそ、フィクションの中だけでも、報われて幸せを掴む姿を、私は見たい。
私はこのラストシーンの後、二人は幸福になったと信じている。
■不穏
ラストシーンの典子の首筋に、不気味な黒いアザのようなものが浮かび上がってくるという不穏なカットで二人の物語は幕となる。
ここの解釈は様々だろう。まあ普通に考えれば、ゴジラのまき散らした放射能に被曝したことで、典子の体にこれから何らかの健康被害が起こって来るのかもしれない、ということ。
ネットには、銀座で剥がれた落ちたゴジラ細胞を典子が体内に取り込んでいて、その生命力のおかげで生き残れた(あるいは甦った)のだろう、って意見があって、それもまた大胆な解釈だと思った。
ゴジラ映画であるならば、やはり核兵器、そして放射能の恐怖について描かれるのは当然で、むしろ全く触れないのも不自然だろう。
もちろん、単なるアザで、そのうち消えてしまうって考えることもできる。そう考えられたら精神衛生的にはいちばんいいのだが(笑)。
もっと大きく考えれば、”核” や ”戦争” の暗喩なのかもしれない。
ゴジラは去っても、人類は ”核” の力を手にしてしまった。人類文明の陰には、これからもずっと ”核” の脅威が存在し続ける。そして ”戦争” もまた、なくなることはない。
一見して平和な世界に見えても、その裏には常に ”核” や ”戦争” があり続ける、ということを示しているのかもしれない。
ハッピーエンドかと思えたラストに、ちょっと不穏な余韻を残すというのはよくある手法で、この映画でもその解釈は観客に任されているのだろう。
■ゴジラ復活?
そして最後は、深海に沈降していくゴジラの破片の映像。徐々に再生を始めていくような描写でエンドとなる。
ゴジラは完全に倒すのは不可能な不滅の存在で、いつかまた人間の前に現れる・・・ということだよね。
山崎監督は「もう1本くらい撮りたい」なんて言ってるらしいから、ひょっとして何年か後に、再び同じ監督によるゴジラ映画が観られるかもしれない。
■おまけ
プラモデルメーカーのハセガワから、こんな製品が発売されるとアナウンスがあった。
「九州 J7W1 局地戦闘機 震電 『ゴジラ-1.0』 劇中登場仕様」
映画とのコラボ製品ですね。発売は12月27日頃とある。ハセガワの公式サイトにある紹介ページにある「※キットにゴジラは付属しません」という注釈が笑える。
心が躍って購買欲が刺激されるのだけど、もう50年もプラモデルに触ってないからなぁ。上手く作れる自信は全くない。
1/48スケールだから全長196.5mm、全幅231mmもあって、意外と大きい。たとえ上手く作れても飾る場所に困りそうだ。うーん、どうしよう・・・
『ゴジラ ー1.0』 ネタバレあり感想 中編 [映画]
公開して四週間近く経ちました。表記にあるとおり、『ゴジラ ー1.0』のネタバレあり感想・中編を始めます(「後編」のはずだったんだけど、思ったより長文になったので二分割しました)。
未見の方はぜひ劇場でご鑑賞の上で再度お越し下さい。
映像・音響共に、まさに映画館の優れた設備で ”体験” するための作品で、一見に値する映画だと思います。
ちなみに私は DolbyCinema と IMAX で観ました。映像のクリアさでは前者が、音響の迫力では後者が勝るような気がします。人によって好みはあるでしょうけど、私は IMAX のほうが本作に向いてるような気がしてます。
「ネタバレなし感想」は11/12にアップしております。
■「海神作戦」
政府も米軍も当てにならない中、民間主導によるゴジラ殲滅のための「海神(わだつみ)作戦」が、野田によって立案される。
ゴジラを1500mの深海に沈め、その水圧で息の根を止める。ダメなら次に海上まで一気に引き上げて、圧力差によってゴジラに止めを刺す。
確かに、深海魚を一気に引き上げると水圧差によって目玉や内臓が内側からはじけ出して死んでしまうが、果たしてそれがゴジラに通用するのか?
作中でも成功が疑問視され、「穴だらけの作戦」と言われてしまうが、他に方法はない。「できることをやるしかないんです」
どう考えても分が悪すぎる戦い。集まった者たちのうち、参加を拒否して去っていく者もいる。だが、残る者もいる。
「誰かが貧乏くじを引かなければならない」
映画の前半での秋津の台詞だ。だが貧乏くじの引き方は二つある。たまたま引いてしまった場合と、わかっていてもあえてそれを引く場合だ。この場に残った者たちは、もちろん後者だろう。
もちろん、誰だって貧乏くじなど引きたくはない。だけど人生の中で、ある程度の仕事を任されて働いているなら、あえて貧乏くじを引かなければならなかったときが、誰でも一度や二度はあったのではないか?
自ら「火中の栗を拾う」決断をしたことはなかったか?
誰かが貧乏くじを引いてきたからこそ、人の世は廻ってきたのではないか?
もちろん、ゴジラと戦うなんていう、命の保証もないようなとんでもない選択はなかったかも知れないが、「貧乏くじと分かっていても、あえてそれを引く」彼らの覚悟に、自分の今までの人生を重ね合わせた人もいるのではないか?
だからこそ、彼らの決断は、私の胸を震わせた。
■野田と堀田
野田は全編を通じて常識的な人間として描かれるのだけど、この作戦説明の際、スライドの光を受けていた中で見せる ”目つき” は、ちょっと ”イッてる” 感じで(笑)、マッド・サイエンティストっぽさを感じさせる。個人的には本作に於ける吉岡さんのベストショットだと思う。
そして「ネタバレなし感想」でも書いたけど、駆逐艦「雪風」元艦長・堀田辰雄[田中美央]の存在感が抜群。彼が登場すると画面が一気に締まる。こんな素晴らしい俳優さんがいたんだ、って発見の驚きがあった。
私の場合、東宝特撮映画で ”指揮官役” と云えば、真っ先に思い浮かぶのが田崎潤さん。『妖星ゴラス』(1962)での土星探査宇宙船・隼号の園田艇長役や『海底軍艦』(1963)の轟天号艦長・神宮司大佐役で有名な方。
田中美央さんも、私の中では田崎さんに匹敵する存在となりました。
■「海神作戦」へのツッコミ
ここは、あえて「重箱の隅をつつく」ようなことを書くので、退屈な人は次の章(■)まで飛ばしてください(笑)。
この手の映画で、細かい矛盾点をあげつらうのは野暮なことだと百も承知なのだけど、気がついてしまったんで書いてみる(おいおい)。
(1)第一段階
ゴジラの周りを泡で包んで沈めてしまう作戦なのだけど、1500mの深海まで沈めるのはけっこう大変そうだ。水深1500mでの圧力は150気圧。このとき、気体の体積は海上時の1/150になってしまう(高校化学で勉強する「ボイルの法則」だ)ので、水深1500mで海上時と同じ大きさの泡でゴジラを包もうと思ったら、海上時の150倍の量の気体が必要になる。総量としては、けっこう膨大な量の気体を用意しなければならないだろう。
用いる気体がフロンガスというのも気になる。フロンの商用生産は1930年頃に始まってるけど、昭和22年(1947年)の時期に、日本国内で大量に用意できたかというとかなり厳しいように思う。
(2)第二段階(予備作戦)
1500mの深海に沈んだゴジラを炭酸ガス(二酸化炭素)を用いた気嚢(風船)で一気に海上まで引き上げる作戦。
だが、二酸化炭素には大きな難点がある。深海1500mでの150気圧の状態では、二酸化炭素は気体にならずに液体になってしまう。つまり、そもそもの前提として気嚢を膨らませることはできないわけだ。
■なぜフロンガスと二酸化炭素なのか
上に書いたように、海神作戦に用いる気体、フロンガスと二酸化炭素には問題点がある。一番簡単な解決法は、たぶん安価で大量に手に入りやすく、高圧でも気体のままである「窒素」を用いることだろう。
ではなぜ窒素ではなく、フロンガスと二酸化炭素を用いたのか。私は、製作陣はあえてこの二つの気体を選んだのではないかと思っている。
フロンガスは、大気圏上層のオゾン層を破壊し、地上へ降り注ぐ紫外線を増やすとして問題となり、現在は製造も使用も禁止されている気体だ。
そして二酸化炭素は、これも地球温暖化の原因となっている気体で、世界的に排出規制が進んでいる。
つまり、地球環境を破壊する気体の代表格であるこの二つを使ってゴジラを倒す、という、いわば ”毒を以て毒を制す” という展開をしたかったのではないかなぁ、って考えている。考えすぎかもしれないけど(笑)。
■「震電」復活!
典子を喪い、ゴジラへの復讐に燃える敷島もまた「海神作戦」に参加、戦闘機によるゴジラ誘導を申し出る。
それに応えて野田が見つけ出してきたのが、なんと「震電」(しんでん)!
このシーン、思わず「うおぉぉ」って叫びそうになってしまった(叫ばなかったけど)。この映画のための架空の戦闘機と思った人もいたかも知れないが、これは実在した機体だ。
「震電」は太平洋戦争末期に局地戦闘機(主にB29爆撃機の迎撃を目的とする戦闘機)として開発されながら、終戦によって日の目を見ることなく終わった機体。計画最大速度は750km/hと、完成していたらレシプロ機(プロペラ駆動機)としては当時最速の戦闘機となったはず。その独特なフォルムもあいまって知名度も人気も高い。なんと将来的にはジェットエンジンに換装した「震電改」の構想まであったとか。
私と同じくらいの世代の方なら、第二次大戦の戦闘機のプラモデル作りに凝った人も多かろう。私も中学3年生のとき(もう半世紀も前だが)、高校受験そっちのけでプラモデルにハマっていて、もちろん「震電」も作ったことがある。おかげで担任からは怒られたが(おいおい)。
そんな ”幻の試作戦闘機” が、対ゴジラ作戦の要として甦り、大空を舞う日が来ようとは、何と胸が熱くなる展開だろう・・・もうこのあたりから涙腺が決壊を始めてしまったよ。
■橘、再登場
終戦から2年も放置されていた「震電」を甦らせるため、敷島は因縁の相手である橘を探し出す。橘は敷島の ”真の目的” を知り、協力することに。
機体を飛行可能な状態に復元するだけではなく、30mm機銃4門を2門に減らし、燃料タンクの容量の半分に。これにより合計で620kg軽量化し、空いたスペースに合計750kgもの爆弾(これは設計時の最大爆装重量の2倍を超える)を仕込む。でも差し引きで重量増加は130kgで済むので、機体の運動性能にも大きな影響は無いのではないか。
NHKの番組「魔改造の夜」どころではない突貫工事をわずかな時間(作中時間では長くても一週間くらいかと思われる)で完成させるなんて、橘くん(+2人の仲間)はマジ天才整備士だね(笑)。
■決戦前夜
ゴジラ再出現の報せに、海神隊の出航時刻も決まる。
「皆さんは可能な限り、今夜は自宅に戻って、家族と過ごしてください」
「覚悟しろってことですよね?」
しかし野田は首を振る。
「思えば、この国は命を粗末にしすぎてきました」
「今作戦では、一人の犠牲者も出さないことを誇りとしたい」
「今度の戦いは死ぬための戦いじゃない。未来を生きるための戦いなんです」
野田の台詞が胸にしみる。間違いなく、本映画のドラマ上のクライマックスのひとつだろう。そして吉岡秀隆さんがこれ以上はないハマり役ぶりをみせる。
■震電、出撃
作戦決行の日、いよいよ「震電」は出撃のときを迎える。
爆弾を抱えて重くなってるはずの機体も難なく離陸させ、わずかな慣熟飛行(作中では1~2分?)で、初乗りの機体にも関わらず、しっかり馴染んで操縦もバッチリ。敷島くんの本領発揮だ(笑)。
まあ、機体修復~改造~離陸~飛行までをリアルにやってたら尺がいくらあっても足りないので、ここはこれで正解だ。
もっと言ってしまえば、「震電」は迎撃目的の機体なので、もともと航続距離が短い。爆装による重量増加に加えて燃料を半分にしてしまったので、作戦の最後まで飛んでいられるのか心配になってしまったが、そんな細かいところに文句をつけるのは野暮というものだろう。それに、そもそも敷島は帰路の燃料なんか心配していなかったはずだし。
しかも、コクピットに典子の ”遺影” まで飾ってしまう。おいおい、それって最大級の死亡フラグだぜ・・・
■電報
敷島の家に電報が届く。受け取ったのは明子の世話をしていた澄子さん。その文面を見て驚愕の表彰を浮かべる。
このとき、典子の生存を確信した人は多かろう。私も、心の中でガッツポーズをしていたよ(笑)。
しかし澄子さんの表情は冴えない。彼女は、敷島が生きて帰ってこないつもりであることを察していたのだから・・・
今回はここまで。「後編」は明後日(12/2)にアップする予定。
『ゴジラ ー1.0』 ネタバレあり感想 前編 [映画]
公開して三週間近く経ちましたので、そろそろネタバレしてもいいかなぁ、というわけで、表記にあるとおり、これから『ゴジラ ー1.0』の感想をネタバレ全開で書いていきます。未見の方はぜひ劇場でご鑑賞の上で再度お越し下さい。
映像・音響共に、まさに映画館の優れた設備で ”体験” するための作品で、一見に値する映画だと思います。
「あらすじ」については、11/14にアップした「ネタバレなし感想」の方に書いてますので、そちらを参照してください。
なお、この記事には同映画のノベライズ版の記述も一部参考にしています。
小説版 ゴジラ-1.0 (ジャンプジェイブックスDIGITAL)
- 作者: 山崎貴
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2023/11/08
こちらは、ストーリーはほぼ映画を忠実になぞっていますが、登場人物の心情の深堀りがあったり、映像では分かりにくい部分の補足情報があったりするので、興味のある方には一読の価値があると思います。
それでは、映画を観ていて感じたこと、あるいは見た後につらつら考えたことも含めて、映画の流れに沿ってダラダラと書いていきます。いちおう「感想」とは銘打ってますが、いつもながら駄文の羅列になってるので悪しからず。
m(_ _)m
■敷島登場
終戦間近の1945年。零戦パイロットの敷島浩一[神木隆之介]は、機体の不調を理由に大戸島に降り立つ。穴ぼこだらけの滑走路にもかかわらず、転倒することもなく無事に着陸してしまう。
敷島は「実戦経験は無いが、模擬空戦は優秀」、つまり操縦技術は一流というのはここで見せておかないと終盤へつながらないからね。
しかし機体の故障は偽り。特攻作戦から逃げてきた(おそらく仲間たちは全員死んでる)というのが彼の ”負い目” になっていく。
ノベライズ版には、島の整備兵たちが敷島に対してささやかながら歓迎の宴を開くという場面もある。ちなみに、鍋の中身は ”あの” 深海魚(笑)。
■ゴジラ登場
その夜、大戸島を謎の巨大生物・ゴジラが襲う。この時点の大きさは15mとパンフレットにある。ほとんど『ジュラシック・パーク』の世界。圧倒的な破壊力で島を蹂躙、敷島と整備兵の橘[青木崇高]以外の全ての人間は殺されてしまう。人間が咥えられるシーンでは「まさかの人喰い?」かと思ったら遠方へ放り投げて。人間は喰わないようだが、そもそもゴジラの主食って何だろう?
敷島は、橘から零戦の20mm機銃でゴジラを撃てと言われても、目の前の怪物の恐怖にすくんでしまって引き金が引けない。このへんの敷島の心情についても、ノベライズ版では深堀りされている。
この行動が二つ目の ”負い目” となる。
■復員
終戦となり、復員船に乗ってやっとの思いで帰ってきた敷島。東京は瓦礫の山に。両親も空襲で死んだという。隣の奥さんの澄子[安藤サクラ]からは、「恥知らず」と罵られる。
とにかくこの映画の(主に前半)中では、敷島は(いろんな意味で)とことん追い詰められるという役柄。
■共同生活
敷島は闇市で典子[浜辺美波](&明子)と出会い、なし崩し的に同居が始まる。夫婦でも恋人でもない若い男女が一つ屋根の下で暮らすという、どこぞのラブコメみたいな展開。
こんな美人が横にいて、何もないわけがなかろう・・・とも思うが、映画を観ている限り、同居人の関係以上には見えない。人生を半ば放棄しているという敷島の設定もあるし、神木×浜辺コンビの醸し出す雰囲気のせいか、見ているうちにその辺はどうでも良くなってしまうというか、二人が一緒に暮らしていることに違和感を感じなくなってしまう。これが『らんまん』効果なのかも知れない(笑)。ネットでもこのあたりへのツッコミはほとんど無いみたいだし。
■機雷処理作業
1946年3月。敷島は戦争中に敷設された機雷の撤去作業の仕事に就く。金のためという敷島に対し、典子は「死んだらダメです・・・」と言う。
ともすれば ”死” へ向かおうとする敷島に対し、典子は常に ”生” の側にいる。
作業船・新生丸で、艇長の秋津淸治[佐々木蔵之介]、元技術士官の野田健治[吉岡秀隆]、乗組員の水島四郎[山田裕貴]と出会う。
■復興の兆し
機雷撤去は命がけな分、給金はいい。敷島たちの暮らしていたあばら家は、小さいながらも新しい家へと建て直される。
最初は襤褸をまとっていた典子も、次第に質素ながらもちゃんとした服へと変わっていき、ゆっくりとだが復興が進んでいることを伺わせる。
お隣さんの澄子も、明子との関わりを通じてだんだん穏やかな表情になり、いつのまにか昭和の時代によくいた ”世話好きな近所のおばちゃん” へと変貌していく。このあたりの演出は上手いなぁと思った。
それにしても安藤サクラさんの割烹着姿は似合いすぎ(笑)。
■典子、銀座へ
頑なに自分との関係を進めようとしない敷島に対し、典子は自立を目指して銀座へ働きに出ることを決める。
闇市で出会った頃こそ、蓮っ葉な口調で喋っていたが、同居を始めてからは穏やかで細やかな言葉遣いに変わり、家事も育児もきっちりこなしていて(ノベライズ版によると、澄子さんからいろいろ教わっていたらしい)、さらには事務員として働き出すに至っては、もともとの ”育ち” は決しては悪くなかったのだろうと思わせる。それも、浜辺美波さんのキャラのなせる技か。
「急ですね」
「ずっと考えていたんです」
典子はここで敷島のことを試していたのかもしれない。ノベライズ版では、このやりとりのときの二人の心情も描かれる。このあたりは、小説ならではの描写といえるだろう。
■ゴジラ再出現
ゴジラの足止めのために駆り出される新生丸。秋津の「誰かが貧乏くじを引かなければならない」という台詞は、後半になって効いてくる。
そして再出現するゴジラ。口の中で機雷が爆発して傷を負うというシーンもまた後半への伏線か。もっとも、再生もとんでもなく早いが。
■「高雄」消滅
重巡洋艦「高雄」との ”近接格闘戦” も本作の見せ場の一つ。
艦体にのしかかってきたゴジラに対し、超近距離からの直撃を喰らわせるシーンには、思わず「おお!」って叫びそうになった(叫ばなかったけど)。
しかし健闘虚しく、ゴジラの熱線で海の藻屑へ。
■敷島と典子
負傷して帰ってきた敷島は、典子に過去のトラウマを語る。
「俺は生きていてはいけない人間なんです」
「浩さん。生き残った人間は、きちんと生きていくべきです」
戦争によって ”死” を求めるようになった敷島、同じく戦争から ”生” への執着を身につけた典子。
彼女のこの言葉が、映画のクライマックスでの敷島の決断に影響を与えたのは間違いないだろう。
明子に味噌汁の味見をさせている典子を見て、「もう一度生きてみたい」と思う敷島。銀座での ”あのシーン” の前にこれを見せておくとは、まさに監督は鬼だね(褒めてます)。
■東京上陸
今回のゴジラの大きさは50.1mだそうな。最盛期(?)には100mくらいあったことを考えるとコンパクト。
だけど舞台が終戦直後だからね。ゴジラより高い建物はない(たぶん)。小さくなった分、地上と頭部の距離も近くなったので、人間の視線からはゴジラの恐ろしさが際立って感じられる。
映像もそのあたりを強調する演出がされていて、迫力が凄い。第1作『ゴジラ』(1954)を彷彿させるシーンもある。
■銀座壊滅
ゴジラが電車が咥えるシーンは、いままでもあったけれど、最新の映像で乗客の阿鼻叫喚ぶりも描かれる。乗り合わせていた典子の苦難たるや、もうね・・・
ちなみに典子が落下した川は、ノベライズ版によると「外堀川」。この川は東京オリンピックの際に埋め立てられて、首都高速の敷地になってしまったので現存しないみたい。
奇跡的に命拾いをし、助けに来た敷島と無事に巡り会うのだが(あの群衆の中、よく見つけたなぁとも思うが、そのへんは作劇上の ”お約束” だろう)、その直後にゴジラの熱線が炸裂する。
今作の熱線は、発射までのシークエンスというか ”タメ” が充分に描かれる。ネットの感想にあった(『宇宙戦艦ヤマト』の)「波動砲」みたいって意見は、まさに言い得て妙。短時間での連射が効かないあたりも共通している。
そして、今回の熱線は威力が凄まじい代わりに、ゴジラ自体にも損傷(主に上半身の一部に、赤く爛れたような部分が現れる)が生じる様子。これもまた終盤の展開に必要な伏線。
そして発射後の閃光、大爆発、発生する巨大なキノコ雲、そして荒れ狂う爆風の演出は、ほとんど「核兵器」だろう。
その爆風から敷島を守った典子だったが、自身はその代わりに吹き飛ばされてしまう。目覚めた敷島が観たものは一面の瓦礫の山、もちろん彼女の姿はない。彼がさんざん苦しんだ末に掴んだ小さな幸せの夢が、無残に散ってしまった瞬間だ。辺り一面に黒い雨(!)が降り注ぐ中、敷島が上げる絶望と怒りの叫びが、廃墟となった銀座に響き渡る・・・
観ていて思わず「えぇーっ」て叫びそうになった(叫ばなかったけど)。
まさかの典子さん退場か・・・とも思ったが、死体となった描写がないのだから、典子はきっと生きているはず。初見の時はそう信じながら後半を迎えていたよ・・・。
ここまでで上映時間のおよそ半分あたり。
以下、後編に続く。アップは11/30頃の予定。
『ゴジラ ー1.0』 ネタバレなし感想 [映画]
ゴジラ70周年記念作品。日本で製作された実写のゴジラ映画としては、2016年公開の『シン・ゴジラ』に続いて通算30作目。
結論から言うと、私はとても楽しませてもらいました!
100点満点で言うと100点です。ホントは120点あげたかったのですが、いろいろツッコミどころが多すぎたので20点減点しての100点です(おいおい)。
この記事を書いている時点で2回鑑賞してますが、あと2~3回はリピートしようと思ってます。
さて、”ネタバレなし” とは言っても、ある程度は映画の内容に触れざるを得ません。致命的なネタバレはしていないつもりですが、予備知識がないほうが楽しめるのは間違いないので、未見の方は以下の駄文なんぞ読むより、直ちに映画館へ直行していただくことを推奨します。金と時間を掛けるだけの価値がある作品だと思いますので。
それでは、ある程度のあらすじ紹介は必要かと思うので、前半部分だけをかいつまんで。Wikipediaの記事を要約/編集したものを掲げます。
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第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)。零戦パイロットの敷島浩一[神木隆之介]は、特攻へ向かう途中で機体が故障したと偽り、大戸島の守備隊基地に着陸する。
その日の夜、基地を島の伝説で語り継がれる生物「呉爾羅(ゴジラ)」が襲撃、敷島と整備兵の橘宗作[青木崇高]以外は全員ゴジラに襲われて死亡する。
同年冬、東京へと帰ってきた敷島は、隣家の太田澄子[安藤サクラ]から空襲によって両親が亡くなったことを伝えられる。
敷島は闇市で、彼同様に空襲で親を失った女性・大石典子[浜辺美波]と、彼女が空襲の最中に他人から託されたという赤ん坊の明子[永谷咲笑:子役]に出会い、成り行きで共同生活を始める。
敷島は米軍が戦争中に残した機雷の撤去作業の仕事に就き、作業船・新生丸艇長の秋津淸治[佐々木蔵之介]、元技術士官の野田健治[吉岡秀隆]、乗組員の水島四郎[山田裕貴]と出会う。
敷島は彼らに典子との正式な結婚を勧められるが、戦争とゴジラによる被害で心の傷を抱える彼は関係の進展に踏み出せず、典子もそれを察して自立するために銀座で働きだす。
ある日、敷島たちは作業中の日本近海にゴジラが現れていることを知り、これを新生丸で足止めしろという命令を受ける。体高50メートルへと変貌したゴジラに機銃や機雷で応戦するが効果はなかった。
そこにシンガポールから帰ってきた接収艦の重巡洋艦「高雄」が到着、砲弾で応戦するが、ゴジラの吐いた熱線によって「高雄」は海の藻屑となってしまう。
翌朝、東京へと襲撃してきたゴジラは東京湾から品川を経由し、典子が働いている銀座へと向かう・・・
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CGの進歩というのは実にスゴい。本作のゴジラが漂わせる存在感、恐怖感、そして絶望感は半端ない。ゴジラの吐く熱線の描写も、シリーズ最高級に凄まじく、その破壊力も桁違いのものを感じさせます。
いったい、こんなのをどうやったら倒せるんだい・・・って観ているほうも途方に暮れそうです。
それでも何とかしなければならない。しかし時代は終戦直後。いつもならゴジラと戦ってくれるはずの自衛隊はまだ存在していない(前身となる ”警察予備隊” の発足が昭和25年、正式に ”自衛隊” となったのは昭和29年)。それどころか、進駐軍(米軍)による武装解除によって、ろくな武器さえ残っていない。
ゴジラに対して日本政府は当てにならず、米軍もソビエト連邦とのにらみ合いを理由に、ゴジラに対する武力行使はしないと宣言してしまう。
そこで本作では、民間人の有志が立ち上がるというストーリーに。
映画の後半では、彼らによってゴジラ殲滅のための「海神(わだつみ)作戦」が立案されます。荒廃した今の日本に、わずかに残されたものを精一杯かき集めての、乾坤一擲の戦い。ですが成功の確率については、はなはだ心許ない。
それでも「やれることをやるしかない」と腹を括った者たちの戦いが始まります。もうこのあたりから、涙腺が緩んで仕方がありませんでした。
この映画には、いわゆるスーパーヒーローは登場しません。第1作の『ゴジラ』(1954)の ”オキシジェン・デストロイヤー” のような超兵器も出てきません。ゴジラに対抗できるような他の怪獣の出現もありません。
ゴジラと戦うのは人間だけ。それも、名も無い市井の人々ばかりです。でも、彼らは自分の与えられたポジションで、自分のできることに精一杯取り組みます。
一人一人は小さく弱い存在である人間たちが、知恵を集め、力を合わせて、巨大な災厄を打ち払おうと懸命に足掻き続ける。それがこの映画です。
キャストについて。
主人公の敷島浩一を演じるのは神木隆之介さん。”興収ハンター”(笑) と呼ばれてるらしいですね。声優を務めた『君の名は。』(2016)も大ヒットしたし、現代の映画スターの一人でしょう。戦争とゴジラという二重のトラウマで、”自己肯定感ゼロ、生きること自体を放棄しつつある青年” という難役を熱演してます。
ヒロインの浜辺美波さん。『シン・仮面ライダー』(2023)で演じた緑川ルリ子のクール・ビューティーぶりとは打って変わって、情愛に満ちた大石典子を好演しています。敷島の行動に大きな変化をもたらす存在となっていくのですが、これもまた素晴らしい。
考えたら、一年の間に『ライダー』『ゴジラ』という日本の誇る特撮コンテンツでヒロインを務めるというのはスゴいことです。ぜひ『ウルトラマン・シリーズ』にも出てもらって ”グランドスラム” を達成してほしいなぁ(笑)。
この二人はNHKの朝ドラ『らんまん』で夫婦役を演じていて話題になりましたが、私には『屍人荘の殺人』(2019)での共演の方が印象深いですね。なんとこのときは浜辺さん(当時19歳)のほうが神木さん(当時26歳)より年上の役だったという(笑)。
「敷島と典子には幸せになってほしい」って感じた観客は少なくないはず。観ているだけで応援したくなってくるのは二人の持つキャラクターのせいなのか、『らんまん』効果なのか(笑)。
元海軍の技術士官で兵器開発に携わっていた野田健治。人はいいけど線が細くて、今ひとつ頼りない。だから彼が立案した「海神作戦」も、なんだか心配だなぁ・・・って思わせるのに、吉岡秀隆という配役はまさにベストチョイスでしょう(笑)。とてもいい味出してます。
駆逐艦「雪風」の元艦長で、「海神作戦」の指揮を執る堀田辰雄。演じるのは田中美央さん。寡聞にして、この映画を観るまで御名前を知りませんでした。大河ドラマ『どうする家康』に端役で出演されてたみたいですが、本作での田中さんは実に堂々としていて元軍人の貫禄充分。それでいて威圧感や横柄さとは無縁で、寄せ集めの参加者をまとめるリーダーとしての度量を示します。
観ていて思ったのですが、メインとなる登場人物たちにはそれぞれきちんと役割が振り分けられていて、誰一人欠けてもゴジラは倒せなかったろうし、”あの結末” に辿り着くことはできなかったと思わせます。これは脚本がかなり練り込まれていたということでしょう。
ネットでの感想を読む限り、概ね好評のようですが、一部には否定的な意見も散見されます。
でもまあ評価は人それぞれ。70年も続いているコンテンツですからね。100人のゴジラ映画ファンがいれば、「理想のゴジラ映画」も100通り。100人全員に絶賛されるゴジラ映画なんて絶対に作れないのですから。
では私はどうか。私は本作を、そして ”あの結末” を全面的に肯定します。
この映画は、ゴジラを倒すストーリーに、全てが灰燼に帰した戦後から立ち上がり、復興に向けて奮闘を開始する日本人の姿を重ねていると思いましたし、さらには大震災やコロナ禍で疲弊しながらも、それでもなお希望を失わずに頑張ろうとする現代の日本人へのエールをも込められていたと思うからです。そして作中でそれをいちばん重く背負っていたのは、他ならぬ敷島でしょう。
ならば、彼が ”あの結末” を迎えることは必然だったと思います。
細かいことを言えば、いろいろ解釈の幅がありそうなエンディングですが、そのあたりを含めた詳しい感想と ”ツッコミ” は「ネタバレあり」のほうで。
今書いてるんだけど、長文になりそうなので前後編になるかな。とりあえず前編は11/22頃にアップしようかと思ってます。