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「ヤマト2199」に関する駄文雑文集(3) ~「さらば」私的考察~ [アニメーション]

「さらば宇宙戦艦ヤマト・愛の戦士たち」

この作品は、私にとって黒歴史とでもいうものになっている。

だいたい、もういっぺん見てみようという気が全く起こらないのだから、
34年後の今に至るまで、全編を通して見返したことが・・・一度あったかどうか。

まあ、TVで放映されたときなど、断片的に見たことは何回かあるが・・・


『これは「ヤマト」ではなかった』と書いたが、
ではどんなものだったら「ヤマト」だったのだろう。
第1作と「さらば」は、どこが違っていたのだろう。

そもそも、私とにって、
第1作(以後「1st」と表記する)の「ヤマト」とは
どんな物語だったのだろう。


頭の中には、何となく形としてあったのだが、
改めて文章にしたことはなかった。


この記事を書くに当たり、
いろいろなHPやブログで、多くの人が「ヤマト」について、
詳細に、しかも深~く書かれているのを読ませていただいた。

「1st」についても、何人かの方が
「1st」とはこんな物語だった、というのを書いている。

それらの中で、次の3つが、
私にとってツボを突いていたように思う。

一つ目は、「絶対にあきらめない男たちの物語」

「1st」第1話の冒頭、沖田艦長は言う。
「わしは命ある限り戦うぞ。最後の一人になっても、わしは絶望しない」
また、こうも言った。
「明日のために今日の屈辱に耐えるんだ。それが男だ」
第3話では、徳川機関長が言う。
「1%の可能性があれば、それを信じて沈着冷静に行動する。
 それが男というものじゃよ」

往復29万6000光年という前人未踏の大航海であっても
彼らは成功の可能性を信じて旅立つ。
彼らは決してあきらめない男たちだった。
彼らがあきらめたとき、人類は滅びるのだから。


二つ目は、「必ず帰ってくる男たちの物語」

第一と重複する部分も多いが、
ヤマトが失われることは、イコール地球の、人類の未来が失われること。
よって、彼らは絶対に生還しなければならない。

地球を旅立つとき、
あるいはヤマトが地球との交信可能圏を離脱するときの最後の通信で、
「必ず帰ってくるから」と約束を交わす。
相手は、地球に残した家族か友人か。あるいは恋人もいただろう。
「1st」では、戦いの中で、生還を断念し自ら死を選んだ者は一人もいない。
(古代守はこれに該当しそうだが、彼はヤマトの乗員ではない)
途中で倒れてしまったら、約束を果たせないではないか。


三つ目は「普通の男たちの物語」

ヤマトの乗組員には、スーパーヒーローはいない。

古代や南部の戦闘指揮、島の操艦、真田の技術。
森雪や太田の索敵、航空隊を率いる加藤。
波動エンジンの整備一筋の徳川。
その他、多くの任務に携わる乗組員たち。
彼らを統括する沖田艦長。

彼らはそれぞれの専門分野のエキスパートではあっても、
一人一人はみな普通の人間である。

ニュータイプに覚醒したり、種が割れたりしないのだ。

そんな彼らが、それぞれの職責を果たし、力を合わせていく。
彼らの知恵と勇気と努力と決断と、そして少しの(たくさんの?)幸運が、
ヤマトを窮地から救い、逆転のチャンスをもたらす。

絶体絶命のピンチから、一気に反撃に転じていくときのカタルシス。
これこそヤマトの真骨頂では無かったか。

「さらば」ではどうだったろうか。


「絶対にあきらめない男たちの物語」だったか?

物語の終盤、
地球目前まで迫る白色彗星帝国の要塞都市攻略戦で、
多くの乗組員の命が失われる。
そして、自ら死を選んでいく者も少なくない。

あるものは友軍機をかばって被弾して。
あるものは目の前の敵を倒し、突破口を開くため。
あるものは要塞の動力部を破壊し、運命をともにする。

「守るべき者のために命を投げ出す」ことは
「あきらめる」こととは違う、という意見もあるだろう。

しかし、私には次のように思える。

自ら死を選ぶことは、「生き延びることを放棄する」ことで、
それは、一種の「あきらめ」ではないのか?

「必ず帰ってくる男たちの物語」だったか?

生きること、生き抜く事への執着、
そんな描写があっただろうか?
すくなくとも私は全く記憶にない。

さらに、
ラストの沖田の言葉は、私には「生きること」の否定に聞こえた。
だから「これは本当に沖田艦長の言葉なのか?」と思ったのだ。


「普通の男たち」だったか?

確かにみんな普通の男たちだった。
普通であるが故に、何をどうがんばっても
事態を逆転させることはできなかった。

そういうふうにストーリーができているのだから。

結局最後に地球を救ったのは、「テレサ」という超常の存在だった。
女神様の慈悲で「救ってもらえた」のである。

普通の男たちの無力さばかりが残る結末ではなかったか。

これもネットで見つけたフレーズだが、
私の思いを一言で表してるので使わせてもらおう。

「さらば」は、「1st」のテーマの全否定である。

「作品が異なるのだからテーマが違って当然」という考えもあるだろう。
しかし、同一の世界観、ストーリーの延長上にある世界の
(私から見れば)180度、全く逆の方向を向いたテーマを
持ち込んでくるのがおかしいのではないのか。

どうしても扱いたければ、
「ヤマト」ではない別の作品を制作すればいいのではないのか。


 でも、「さらば」に感動した人たちは
 「さらば」は「1st」のテーマを「発展・深化」させたものだ、
 と感じているのだろうなぁ。

 私の頭の中では、「1st」と「さらば」のテーマは
 お互いに相容れない、真逆なものなんだが。


こう書いてくると
「おまえはどんだけ1stが好きなんだ」
「1stを美化しすぎ」
「1st原理主義者」
と言われそうだが、それは否定しない。
自分でも、この文章を書いていて改めて自覚した。
私は「1st」が大好きだったんだなぁ、って。


ここまで長々と書いてきたのも、
「さらば」が「私の見たかったヤマト」ではなかったというので
(いろいろ理屈をつけてはいるけど)
だだをこねているだけ。
そう見えるだろうことも十分承知している。

実際そうなんだろう。


しかし、人は自分の感性でしかものを考えられない。
その私の感性が、この作品を否定しているのだ。


「さらば」の公開が終わり、私の10代もまた終わった。
そして、
「ヤマト」もまた、私から去って行ってしまった。
永遠に。


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