SSブログ

蜜蜂と遠雷 [映画]

(10/9追記あり)


原作は直木賞&本屋大賞をW受賞したベストセラー、
今朝(10/6)の新聞を見たら150万部に迫る売り上げだそうで
スピンオフ(番外編)短編集も発売されたみたい。

そんな鳴り物入りの作品の映画化。
期待と不安を抱いて観に行きましたが・・・・

mitubachi_poster1.jpg
昔の角川映画のキャッチコピーに「読んでから観るか、観てから読むか」
ってのがあったが、この映画に関しては
原作を未読のまま観た方が素直に楽しめるんじゃないかなぁ。

私みたいに原作を読んでから観に行った人は、
原作と映画でいろいろ異なっている点が気になってしまい、さらには
見終わった後にモヤモヤしたものが残ってしまう映画だったように思う。


これからいくつか思ったことを書いていくのだけど
この映画が気に入った人にはオモシロくないかも知れない。
あと、原作と映画のネタバレを含みますので、
原作未読の方、映画未見の方はご注意を。


もともと文庫で上下巻、総計950ページくらいあるわけで
まともに映画化したら2時間に収まるわけはない。

最近流行の「前後編」二部作なんて手もあったかも知れないが
ネットのインタビューを読んでたら、原作者から
「前後編にはしないでくれ」って言われたとか。

原作者自身が「小説でしかできないことをやる」っていってたわけで、
原作通りの映画化はそもそもできないと思っていたのだろう。


ならば、制作陣はどのように映画化したのか。

まずは原作の刈り込み。

第一次→第二次→→第三次→本選と続くコンクールの流れのうち
まず第三次予選をばっさりカット。だから二次予選を終えるとすぐ本選。

亜夜のサポート役だった浜崎奏も、存在そのものが抹消。
私は世話好きな奏ちゃんというキャラが
けっこう好きだったので、これは悲しい。

ジュリアードの王子様・マサルと
蜜蜂王子・風間塵の描写も大幅に縮小。

その分、亜夜の描写に重きを置いている。
主要キャラ4人の描写比は、あくまで私の私感だけど
亜夜:明石:マサル:塵 = 5:2:2:1 くらいかなぁ。
原作でも、4人の中で亜夜がドラマ的にはいちばん
”背負っているもの” が大きいキャラだったけど、
映画ではさらに主役として ”格上げ” されている。

終盤近く、明石が音楽祭事務局からの電話を受けるシーンもばっさり。
ここは大感動ポイントだったんだけどね~。

でも、この様々な刈り込みは亜夜にフォーカスするためには
仕方ないところかなぁ・・・とも思う。


私が最も残念に思ったのは、その主役である亜夜の
キャラ設定の改変と、それに伴うストーリーの改変。

原作での亜夜は、芳ヶ江コンクールに対して
やや醒めた態度で臨んでいたように思う。
以前の記事にも書いたけど、音大学長への借りを返すというか
結果は二の次で、自分のピアノへの気持ちに
区切りをつけるつもりで参加していた。

映画での亜夜は、もうちょっと ”崖っぷち感” が強めの設定に
なっているように感じた。
亡くなった母に対する思いも、未だに大きく引きずっている。

そして最も大きな差は、亜夜の成長の描き方。

原作での亜夜は、第一次→第二次→第三次と
予選のステージが上がるたびにその音楽的な才能が開花していく。

醒めていたはずの彼女が、明石の演奏を聴いたり、
風間塵やマサルと出会ったことが大きな刺激となって
ピアノの楽しさ、音楽の素晴らしさを再発見していき、
蛹が蝶になるように、蕾が大輪となって咲くように変貌していく。
そこが一番の読みどころだったと思う。

映画版の亜夜は、最後の本選の直前まで母の死を引きずっていて
7年前と同じく、本選での演奏を放棄しようとまでする。
まあ、直前で思いとどまって会場へ引き返すのだけど
ここに意味がよく分からないイメージシーンが挿入されていて
解釈に迷う(私のアタマが悪いだけかも知れないが)。

いったんはどん底まで落ちた天才少女が、トラウマを乗り越えて
完全復活を遂げるという、入口と出口は同じながら
その途中の描き方は大幅に異なっている。

段階的な成長を描くには、絶対的に尺が足りないってのが
理由であろう事は分かるんだけど、でもねえ。
繰り返すけど、ここが一番の読みどころだったんだよ・・・


それから、明石と亜夜の関係。
この二人は、原作では終盤に一度だけ会話をするのだけど
(そこも大感動ポイントだったんだけどね~)
映画の中では第一次予選後から言葉を交わす仲になる。

まあ、大事なシーンを削ってしまった分、
明石も本筋に絡めたかったのだろうけど・・・
あまり効果的ではなかったようにも思う。


文句ばかり書くのもなんなので、良かったところも。

映画なのでもちろん、画面と音がある。
当たり前なのだけど、絵も音も聞こえない小説にはないものだ。
これは頑張っていると思う。

画面が美しく、荘厳なコンサートホールの雰囲気もよく出てる。
オーケストラの演奏シーンもさすがの迫力。

長大な原作の細部を刈り込んで映画化すると、
そのあたりのことを説明する台詞が多くなりがちな気がするのだが
本作では、なるべく長い台詞は廃して
映像と音楽で見せようと苦心しているのは分かる。

一緒に観に行ったかみさん(原作は未読)も
そのあたりは気に入ったみたいだ。
「画面がきれい」「音楽が素晴らしい」「話もよくできてる」って
けっこう高評価みたいである。

最初にも書いたけど、この映画を観るにあたっては、
原作を知らない方が楽しめるのかも知れない。
なまじ原作を読んでると、上に書いたみたいに
小説版との差ばかりが目についてしまうからね・・・。


配役も良かったと思う。

亜夜役の松岡茉優さんは屈折したピアニスト役を好演してる。
ピアノを習っていた経験があるそうだが、
ピアノを弾くシーンも堂々としている。
クライマックスの本選では、オーケストラに負けない
圧巻の演奏シーンを見せてくれる。

明石役は松坂桃李も私のイメージ通りの配役だった。
悩めるサラリーマン・ピアニストが板についてる。
原作からの明石ファンとしては、もっと出番が欲しい。
やっぱり、あの ”電話を受けるシーン” は映画で観たかったよ・・・

マサル役は森崎ウィン。
天才でイケメンで人格者という完璧超人を演じた役者さんの
実年齢が29歳と聞いてびっくり。10歳も年下の役をやってたのか。

風間塵役は鈴鹿央士。
原作のイメージだと、もっと小柄な感じだったんだけど
映画では亜夜より背が高くてちょっとびっくり。
それ以外は破天荒な塵のイメージに合う人だと思った。


以下は余計なことをちょっと。


映画の原作としての小説って、どれくらいの長さが適当なのだろう。

『2001年宇宙の旅』(1968:上映時間141分)のたたき台となったのが
短編小説「前哨」(A・C・クラーク)だというのは有名な話。

短い原作をもとに、映画用にイメージを膨らませていくのが
一番無理がないのかも知れない。

『ローレライ』(2005:128分)は小説「終戦のローレライ」(福井晴敏)
が原作だが、文庫で1800ページくらいあったものを
2時間に収めるのはどだい無理な話だったね。
結果的に原作とは似て非なるものになってしまった。

最近観た中で『ハンターキラー 潜行せよ』(2018:122分)も
原作は文庫で上下巻。合計900ページくらいあったかな。
映画化にあたり、1/3くらいのエピソードをカットして、
さらに大幅なストーリーの改変もあった。
それでいて、出来はいまひとつ。


ちなみに、ついこの間観た『HELLO WORLD』(2019:98分)。
脚本家が自ら書き下ろしたノベライズは、文庫で約330ページ。
内容的にも過不足なく、よくまとまった出来。

2時間の映画の原作なら、文庫で400ページくらいが
無理なく作れる上限なのかな、なんて思ったりした。


追記

記事中に「意味がよく分からないイメージシーン」て書きましたが
あれは亜夜の心象風景の一つで、原作の冒頭にそのようなシーンが
しっかりあったそうです。

的外れな文章だったと言うことで、お詫びいたします。
申し訳ありませんでした。m(_ _)m

それにしても、読み割ってまだ2ヶ月くらいないのに、
すっかり忘れていたようで、私のアタマも
かなりボケが進行してるみたいですねぇ・・・

で、なんで分かったかというと、かみさんから指摘されたから。

映画を見終わった後、「原作が読みたい」って言い出したので
文庫上下巻を貸しました。それを読み始めた矢先に、
「あのシーン、原作の冒頭にあったよ」って教えてもらったというわけ。

ちなみに、まだ序盤しか読んでないみたいなんですが
「すごく面白い!」って喜んでおります。

nice!(4)  コメント(4) 
共通テーマ:映画